八方八柱の神人体御守護所細密並に悟り諭しの根本

 身体は神様で有る神様の物で有ると言う事をしっかり知りて身の内に有るものは世界に有る世界に有るものは身の内に有ると知りて万の事世界に取っては是れ人間の身体に取っては是れと皆々一ッ/\順々と心に治めてしもうたら諭し位平らな容易なものはない是れが天の理を知ったので有る。

 

  なれど一時に何もかも一緒に諭しも身の内も交々ではこじゃ/\になって何にも明らかに分からんから諭しが出来ぬ一々順々と心に治めて行く事が肝要なり。

 

 只神様の身の内の御守護所を明らかにするを主眼とせるものならば病恨諭し方の方面は大略にして極簡単故委細を悟りて諭しに応用するには本書全体を一貫してそれより深く其の理を悟りて是れを八法八社様の御心魂にまとめてしかして初めて応用出来るものと信ずる訳であります。

 

  是れより以下は身上悩みの御諭しの事に就いて要点を述べたいのでありますが身体は死しても生まれ出る故病気は理の軽きものなれど魂が落ちて行くのが重い事ゆえ霊救と云う事が偉大なる助けである也。例えば牛馬界に落ちては心立替徳積む事出来ぬ如し。神の世に出れぬ。

 

  神様は物を云うて諭し下さる事出来ん身上に知らせ下さるだけなれば之れを諭す者が神の道具偉大なる功能あるものにて例えば一人の命を助けるのは何程の価格とも分からん理で有る。依って我が身の悪因縁が切って貰えるのである故に何でも人を助けねば我の魂が又助けるにはそれだけの助けるいわゆる技術を学ばねばならん助ける事が出来ん依って真理を学ぶ必要あり。神は無理な願いはしてくれな無闇に願っても助からぬ。

 

 神様は病の元は心から難儀するのも心から皆如何なる事も心一ツより無いと仰せられたるが、其の心は八ツの心使いより八ツの埃を生ずるなれど八埃千筋有ると仰せられたる通り、皆人間は各々顔の異なる如く心も多少の異なりあれば、其の人/\に諭す所人の心を直して天の定規に合わして行くには、我が心を磨きて自分の心が明らかに成らん事には人様の心の中が見えぬ。

 

  鏡に物が写ると同じ事、我が心の掃除が出来て心が澄まぬ事には霊救という真に人間の助かる所の明らかな事は分からぬのが天の理にして人の心の中が見分けが出来ん間は皆修養中故、如何なる人にも満足を与え人の心を直して行くと云う人の心中を見抜き先が見えて導き教え助けるその人/\のキチットしたる細密な御諭は神様の御心に分通せざれば分からぬ。

 

  其の我心を掃除するには此の度、月日様の思召しにて御教祖は五十年間御苦労天啓に依って御教え下されたる天の理を深く聞かせて頂きて其の雛形に依って実践窮行を以って、助け一条に苦労の道を踏み、心の掃除が出来ねば何時迄経っても分からん。

 

 汚水に物を入れる如く探らねば分からん。心の掃除が出来たらば皆見分けがつくと仰せ下さる。我が心が天理にはまれば神の自由用自在の神徳を授け給う。心に神が宿り下さる不思議な助けが現るれば人は皆信仰をする。

 

  御教祖の御苦労の理を幾分なりとも踏む理に依って、明らかなる御教祖の御諭しが胸に治まる。欲が有るなら止めてくれ神の受取り出来んからと仰せられる通り、自分の汚い小さな我田に水を引く様な心でどうして天理と云う様な綺麗な大きなものが入れられるかと仰せられた。

 

  幽冥の故を知ると言う、無形なる人の心を見るという。凡人の見えぬ事を見分けるのは無形の心の掃除心に力が入り、陰徳を積む、見えぬ所に徳を積む。人間上の見えた所のつやを作り花を見たい心とは、例えば人に礼云はそう、それだけ光を出そうと思う心から人の前を飾る如く、神様に受け取って貰うのであれば、人間の目に掛けなくてもよいと同じ。見えた物は我が物でない、見えんものが我の理と仰せ下さる。

 

 たとえ如何なる御方でも、先生でも、人間が徳を授ける事は出来んもの故、只、神様から頂くのである。神様より他には無いもの故、神様にさえ受取って貰えばよい(或いは金の大小物の多少には依らん、只心一ッ真実を受取って貰う)人間がどうした所が人間が守護する事は出来んのであるから。神様の御道は心一つの道。心に力が入り、心が神様に繋がるで至妙の域に到達する妙は神で有る。

 

  例えば昔の武芸にしても師匠より極意皆伝の上我の苦労の理を積んで妙を体得した如し、同じ病でも人々に依って心の間違いの出所が違う如く、是れが見分けの必要で、一ッの病でも八通りに見分け説く。其の人/\に当って、八通りに割るのが見分けで有ると仰せられ、八通りの見分けが出来ねば、真の神の道具には使えぬとまで御教祖より仰せられた。

 

  例えば色情の間違いでも足に来る者と、目に来る者と、腎臓に来る者、一の道具に来る者、子宮に来る者、腰に来る者もあり。又背骨とか、顔鼻手其の他に現れる如く、其の人/\の性質(即ち前世以来の因縁)の異なるに依って、違う物をかすめる非道の欲しい性の者は目に来る。

 

 人を立てぬ性、我意を立て抜く短気の者は足に来るが如く皆性質にて相違を生じ、同じ立てぬのでも人を見下げる高慢の性から立てぬ人と、色に溺れて立てぬ人と強欲にて立てぬ人も色々有るが如し。

 

 同じ一ッの病でも或いはその原因を異にするとか、徴候を異にするとか或いは先天性後天性の別もあり。体内一ヶ所でも病気の種類数多くありて或いは腫れ物が生ずるとか、怪我とか一種の悩みでも軽重大小あり。又二ッも三ッも併発して一緒に来る事等有り、其の人に当って表より諭すべき者と裏より諭すべき者と有如く、皆一定に行かない。一手に諭せるものでなく、是れが一定に行くものなれば活版刷りにして如何なる事も明細にキチット分る様な訳だが、神様の事はそうは行かぬ。

 

  是れを一々筆に記す如きは複雑にしてとても書き尽くせる訳のものでなく、又神様の御守護も病気も怪我も過失も不事災難等何もかも一緒ではお互いに理の研究に供せんとする事が複雑に成って、却って其の理の本を了解して握る事がなし難くなるに依り、簡単な所から順々と理の台から悟りて段々細密に渡る様。

 

 皆実地その場合に当り、人々に依りて判定するものなれば文書に記せぬ御互いに教はるに教えれぬ、云うに云えぬ所の有るもので、皆悟りてある故、以下病の諭しを記載せるものは大体の本の理から簡単に一例を筆記して御研究の参考に供するものなれば其の意味其の理と云うものを悟りて応用に供したい次第であります。

 

  それに数々同じ様な事柄を重ねて並べて書入れしましたるは別に耳新しい事では決してない。従来御互い様に皆様が使って居らるる有り触れた事で有りますが、これも其の部に加えて参考とするもので御諭し方は各人々にて心の使い方と同じく一様に行かないため、其の或る一部分の一例を引きて参考の資に供したい為なれば、実地に当りて悟りの上から是れを取捨して応用を願う。

 

 しかして草木でも種は細かいもので又枝先に稔る如く、細かい所に有るものなれば細かい所迄説いて行かねば多く人が満足出来難いもの故、十分の熱心に依って研究を進めて行く事が必要と存じます。

 

 例えば庭園の塵芥を掃除なしても微細な物に注意して掃除すれば大きなゴミは独り取れると同じく、人間の心も細かい埃が取れたら、大きな埃は取れるが、大きな事を思い云うて居て、小さい垢がとれぬ故、心の掃除が出来ぬ故、見分けが付かんと仰せ下さる。

 

  例えば人間日々の心事、行為、其の人の性質の悪癖欠点些細の事が其の人の価値を落とすが如し。御諭しは台さえ腹に入って居たら、段々細かい事が分かって来る。天の理の根元の台さえ深く悟りて、心に治めてさえあれば心の磨けるに応じて明るくなる。根の根のひげのひげと云う事を仰せられたり。

 

 例えば其の病人に応接、又其の家に行きて見れば心に悟れる。真に人を助けよと思う真実誠なれば神に通じ、神様の御守護で皆分かるものなり。当人云う事、なす事、周囲一家の状態に皆病根が現れている。 ことに当人の言語動作に現れる神の守護にて云わせ給う故、教師の勉強となる。諺に教えるは学ぶがなかばと云うが如し。

 

 悟りは見分け聞分け考える。其の人の性質其の身分何々如何なる理の間違いの種より起こるという如何なる行いがして有ると言う事を我胸の内に十分悟る理。其の人/\に依りて現れる状態と其の場合と其の人の云う事する事で天の理から悟る。

 

 諭しは其の性質、其の身分を知り、如何様にしたら此の人は助かるか、懺悔に成るかと云う所から、其の人の感心と得心の出来得る様懺悔改良の出来得る様に分かり易く話すを言う。悟り、目耳鼻三ッ裏の理諭し、目耳鼻口四ッ表の理となる。

 

 如何なる立派な話しをしても当人が如何にもと感ずる心が出来ねば懺悔をせぬ故、御利益が頂けぬが天理。但し取次人の誠実力次第に依って、一時の御守護は下さるなり。依って如何なる者も感化して神を信ずるに至る。取次人の徳に依って授け下さる場合あり。

 

 此の度の御道は、何を云うても人間に神徳を授けるが為の教えなれば、実践躬行陰徳を積んでを磨き、心に神様宿って頂き、神意の発現に依って其の徳に人が感化する。只御話を取次だけでは人心を感化する徳が出来ぬば実際の力ではない。

 

 又、我心に悟る理と人に諭す理とを分けて、其の人の病恨を我心に十分悟りて、それより其の人の助かる様、心の作れる様、其の人の長所は褒め、理を説いて導く心を直して行くのが教師の器量であって、只病理を其のままポン/\と剥き出しに云うては、其の真の意味が当人に分からぬ時は却って心の作れぬ者が多い、人の欠点を突く様な事に当たる。寛仁大度の親心がなくてはならぬ。

 

 兎に角御諭しの眼目は、親神様の大恩を充分得心の出来得る迄仕込むのが御諭しの肝心也。全て身の内は、背でも腹でも手も足も指も総体、何処でも、上の方は目上、中は同輩、下の方は目下。皆々三段に諭す也。

 

 何でも一切左は男、右は女に取る事。但し左は男と云うて目上に諭す事あり。右は女と云うても目下に諭す事あり。又左は先々の心使いの理、右は過去前々是迄の心使い、心迷いの理に諭す事有。皆見分けに依る(例えば左は主人、右は御供と云うが如し)。男は左が我身、女は右が我身で有る。我心から引出した埃も有り、先々心使いは多く先案じ。

 

  目でも口でも全身何処も上下左右が有る。上は目上、下は目下に取り、又何処も内側外側表面と内面と或いは衣服を着て居る如くで、何時も見えて有る所と見えぬ所と有り。例えば家族内輪で為す心事行為と、他の人に対する理と表向きに云うとか為す事と、秘密に成す事、陰で隠して為すとか云う事等、同じ不足でも口外に出した不足と、云わず含む不足の如きで皆外部に現れるのと内部に現れる等。

 

 左に現れる悩み、右に出来る悩み。左から起って右に来る事も有れば、右から発して左に及ぶ事有り。上から初まり下に移る事も、下から起って上に及ぶ事も、内から起って外面に現れる事も、外面から内面に及ぶ事等、皆病でも初まりの起る所と、影響する所と現れ来る徴候の状態。云わねば人に分らん悩みと表に出来分る悩みとあり。

 

 例えば、心の内に人知れぬ埃を積むのと、表に出してやかましく云うて積む埃とある如く。或いは男から始めて女に関係する事情とか、女から起りて男に及ぼし関係する埃とか、親から埃を立てて子に係るとか、目下から起った事情とか隠して行った事が表に現れ多数の人に及ぶとか。

 

 子供十五才迄は親の理なり。男子は父親六分母親四分の懺悔。女子は母親六分父親四分の理。男児にて右や、女児にて左に現れる時は両親に係るが、左なれば父親の理、又男一切に関係する。右なれば母親の理又女一切に関係する。

 

 小児三歳迄は男女共母親が七八分懺悔するべき事。三才迄は母親が骨が折れるものなり。十五歳迄に現れる理は其の人前世だが、親の懺悔親の理が出る。十五才より三十才迄は自己と親と双方の懺悔、三十歳以上は自己一人の懺悔にて助かる。

 

 例えば子供が前世持越し因縁の重病を患ってあれば、親に其の性質又は其の因縁を作りし雛形が有る。依って親の懺悔にて助かるなり。

 

 皆神様と身の内を一ッに悟って居れば、段々細密なる事が明らかに分って来るのが天の理にて、身の内借り物の理が分れば諭し位容易なものはない。